Great wave off kanagawa

日本における印刷技術の普及と変遷 ~中国から伝わり江戸時代に開花~

中国から日本へと伝わった印刷技術

 

印刷技術は中国から伝わり江戸文化に様々な書を生み出しました。

under the microscope

6世紀の中ごろ、日本にも中国を経由して韓国から仏教が伝えられました。
その布教にも印刷技術が関係しています。

770年、国中のお寺にお経をひろめるため、100万巻の「陀羅尼(だらに)のお経」を国中の大きな寺にそれぞれ10万巻ずつくばることにしました。

このときの印刷方法は中国から伝わってきた印刷方法によるものです。また、このときに刷った「陀羅尼(だらに)のお経」が世界に残る一番古い印刷物です。

ところがそれ以後の300年間、日本の印刷は全く行われませんでした。

文字が読める人は一部の偉い人たちだけでしたので、たくさん印刷しなければならないといった必要がなかったからです。

みなさんご存じの「源氏物語」は印刷によるものではなく、なんと手で書き写されたものなのです。

 

江戸時代に急速に発展した印刷技術

2世紀ごろからは,ふたたびお経が印刷され始めますが、このころの学問は武士などのごく一部の人たちのものだったので、あまり多くは印刷する必要がありませんでした。

ところが江戸時代(1600~1867年)になると、商業がさかんになり、町民たちの間でも文字を読み書きできる人がふえてきました。

商売をするのに、「読み・書き・そろばん(計算)」が必要 になってきたからです。

このころ、寺子屋で町民の子供たちに読み書きを学び、1870年頃には10人の内に6人が文字が読めるようになり、「東海道中久栗毛」や「日本永代蔵」、カラフルな「浮世絵」などの文芸作品やテレビでおなじみの「かわら版も木版により印刷・出版がされ始めました。

ようやく日本も印刷文化が誕生したのです。

Song dynasty golden age

 

多くの印刷物が江戸時代の町人文化の発展を推進

江戸の3代目将軍 家光の時代には木版印刷による出版社、書店、貸本屋などが発達し、浮世絵や浮世草子、俳書、浄瑠璃などが盛んに刊行され一般に多くの種類の書物が普及しました。

その他、武士の学問向けの書や元禄時代には町人文化が開花し「洒落本」「人情本」「滑稽本」なども刊行されました。

toshusai sharaku otani oniji

木版印刷から活字による活版印刷へ

活版印刷の表現の量的拡大とそのスピードは木版印刷を凌駕していました。

Heidelberg

印刷の歴史は1枚の板に文字や絵を彫った版で印刷する木版印刷(整版印刷)から、1字ずつ彫った文字が独立している活字を版に組んで印刷する活版印刷へと進化しました。

日本には活版印刷の技術が16世紀にヨーロッパと朝鮮から入ってきました。

しかし、徳川家康による出版活動や「キリシタン版」の刊行で用いられただけで、それ以後はあまり用いられることなく、明治時代になるまで木版印刷が主流となっていました。

これは、江戸時代に出版の大衆化が進み、絵入本が多くなったため、文字と絵を1枚の板に彫る木版印刷のほうが活版印刷よりも手間を要しなかったからです。

さらに日本では平仮名の文字は草書で書かれることが多く、続き文字で表記されるため、活字のように1字1字を独立させることが困難だった為、木版印刷重視の要因となりました。こうした事情のために、日本の印刷史では活版から木版へ逆行するという奇妙な現象がみられたのです。

日本活版印刷の始祖・本木昌造

本木昌造

本格的に活版印刷が始まるのは1870年(明治3年)以後、日本活版印刷の始祖とされる本木昌造が道を作りました。

本木昌造は、もともとオランダ語の通司(通訳)を仕事にしていた関係で、オランダからやってきた印刷技術と機能の素晴らしさに感銘し、何とか日本語の印刷物をつくってみたいと思いました。

そこで、オランダの貿易商人から購入した印刷資機材を手にしながら研究に没頭し、ついに片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功しました。

早速、自分で書いた本(蘭和辞典)の印刷を試みたのです。

本木昌造が鉛活字による印刷で作った和蘭辞書

オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。

そんな経験を生かして自ら日本語の活字開発に挑戦し、さらに、明治に入って早々(1869年)に活版伝習所の開設に漕ぎつけてました。

続いて伝えられた「電胎法」印刷術

活版法は明治時代の初頭から急速に浸透していきました。

Plastic bag

日本における活版印刷の始祖・本木昌造は中国の上海で印刷所の館長をしていた活版技師、ウィリアム・ガンブルが日本を訪れた際に、電気メッキの技術を用いる「電胎法」という新しい母型製造法を教えてもらう機会を得ました。

活版活字

本木昌造は勤め先も辞めて活字づくりに専念し、明朝体の号数活字をつくる契機にしたのです。

その後、門弟であった平野富二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。

築地活版製造所が長崎の活版製造所から引き継いで製作を重ねた書体は「築地体」と呼ばれ、日本で現在使われている印刷文字の源流となっています。

各分野で活用された「エルヘート凸版法」印刷術

880年代、大蔵省印刷局(現在の「独立行政法人国立印刷局」)で技術指導にあたっていたエドアルド・キヨッソーネは、多くの技術者を育てるかたわら、細紋彫刻機の機能操作、エルヘート

エドアルド・キョッソーネ

キヨッソーネの下で学び、最新の印刷技術である「エルヘート凸版法」を基礎に、木村延吉と降矢銀次郎の二人の技術者は、「凸版印刷合資会社」を作りました。

この会社が現在の「凸版印刷株式会社」の前身です。

このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物など、様々な種類の分野で力を発揮していきました。

日本発オフセット印刷機

1900年代に入り、従来の方式に比べてより高品位な印刷が可能なオフセット印刷が日本に伝えられました。
様々な種類の外国製メーカーの印刷機、製版機の技術と性能が紹介されるようになりました。

Machine

そして、1914年にハマダ印刷機械の創始者である浜田初次郎がアメリカのポッター社の機械を参考に国内オフセット機第一号機を作りました。

写真植字 写真植字

1924年には石井茂吉と森沢信夫が和文写真植字機の開発に取り組み、写真植字機研究所を設立し、その後、文字印刷においては活版法と並ぶ重要な技術になりました。

第二次大戦後には印刷、製版、インクにおいても、新しい技術が生まれ、紙以外の材料にも印刷できるようになるなど激動の進化を遂げました。